「哲学」によって学校を再生しようとする試み 映画「ぼくたちの哲学教室」を観て考えた【西岡正樹】
■ベルファストの子どもも日本の子どもも抱えている課題は変わらない
しかし、3月まで現場にいた教師として言わせてもらえば、ベルファストの子どもたちも日本の小学校の子どもたちも、抱えている課題はそんなに変わらないのではないだろうか。日本においても、不安定な子どもたちは感情を抑えることが難しく、自分でそれをうまくコントロールできず、感情がそのまま行動になって表れてしまうのだ。また、その数は年々増加しているように感じる。
宗教的政治的対立によって生みだされた紛争が終わった後も、不安定な平和の中で多くの課題を抱えて生活しているベルファストの子どもたち。それでは、日本の子どもたちは宗教的政治的対立もなく、暴力的な破壊が行われない日本の中で、平和に暮らしていると言えるのだろうか。いえいえ、特にコロナ禍、コロナ後、個に分断された子どもたちが、平和な社会でそれぞれの喜びを享受しているようには、私には到底思えない。むしろ、仮初の平和の中で、日本の子どもたちもベルファストの子どもたちと同じような課題に直面し、煩悶しているように思えてならないのだ。
日本の小学校には「哲学」の授業はない。その代わりにあるのが(いや、代わりではないな、ではなんなのか、それもはっきり言えないが)「道徳」の授業である。私は「哲学」と「道徳」の違いを、哲学は「いかに生きるか」を学び、道徳は「より良く生きるため」に学ぶものだと理解している(指導要領には「個の尊重」が声高に書かれているが、果たしてどうだろう。「道徳」を評価する、に至った時点で「個の尊重」は幻と化した)。
思うに、「哲学」と「道徳」の授業が向いているベクトルの方向は異なる。また、考えるに、日本で「哲学」の授業が行われなかったのは、日本には「個人主義」(勝手にふるまうということではない)が成熟する基盤がなかったからではないだろうか。歴史的に見ても「全体主義的」に成熟してきた日本社会では、多くの日本人にとって「哲学」は身近な存在ではなかったと言っていい。我々が常に求められたのは「いかに生きるか」ではなくて「いかにより良く生きるか(より良い社会にする)」なのだ。そう考えると、「哲学」によって学校を再生しようとする試みは、日本ではなかなか難しい。